1995年1月17日の思い出

 このエッセイは"YAKUMOBUS JOURNAL"に2007年1月17日〜23日(全5回)に連載した『1・17の思い出』を、そのまま転載したものです。

 たぶん皆さんいろんな思いがあると思います。特に大切な方や家・お仕事をなくされた方、そしてその後の人生が変わった方のことを思うと、正直書こうか悩みました。私にとって、あの日は経験しているのですが、被害は少なかったほうだったからです(あの日は神戸市北区の実家にいました)。しかし、あの日のことを知らない人が今後増えてくると思い(あの日生まれた方が今春('07年)中学生になります)、今後の記録を残す意味で、あの日のことを鉄道を中心に書きました。一部不適切な表現があるかも知れませんがお許し下さい。

 あの日のことを思い出されて、一読されてくれること願います。

2007年1月30日 筆者"YAKUMOBUS"


 

 皆さんご存知だと思いますが、12年前の今日、阪神・淡路大震災が発生しました。6000人以上の命が一瞬にして奪われてしまったわけで、今でも言葉がありません。

 

 しかし、12年経ったということはこの日に生まれた人が今年の4月から中学生になるわけでだんだん知らない人も増えてきているということです。何しろ今でも高校生以下の方は『国鉄って何?』という世代なので、だんだん震災も同じことが言えてくると思います。そこで今日はあの日の交通について書きたいと思います。写真が無いので文章だけですが、お許し下さい。

 

 あの日私は神戸でフリーターをやっていて、あの日も実家(北区)のベットで寝てました。突然のゆれで、眼が覚めたのですが、何のことか分からず、しばらく布団にかぶっていました。

 家族(両親と妹)が部屋から出てきてみんな呆然としていました。幸い家はひびが入った程度、家具は転倒しましたが全員無事でした。ちなみに知人も全員無事でした。

 

 8時過ぎに停電が復旧し、TVを付けたらまず目に飛び込んできたのが、阪神高速が倒れている姿でした。そしてもう一つ、JR六甲道駅が崩れ落ちている姿でした。

 

 『やばい。交通機関全滅だ・・・。』と私は直感しました。事実、神戸市内の鉄道はすべて止まっていました。買出しや後片付けをしながら、まず、どこまで開通しているか神鉄に聞いてみましたが、全滅のこと。車など使えるわけ無く、このまましばらく陸の孤島になるのもを覚悟しました。最悪原付で移動すること(家に1台だけあった)も考えました。

 

 次の日、北神急行が新神戸折り返しで再開することになり、当時大阪に北神+JRで通っていた父は神戸の出先(元町にあります)で応援に行くといって出かけていきました(1週間帰って来ませんでした、と記憶しています)。私はバイクで市街地に出ましたが、眼を疑う光景でした。ビルは崩れる、家は燃えている、水は出ない・・・。しばらく私はボランティアで市内と家を往復しましたが、バイクが唯一の足でした・・・。

(2007/01/17掲載)

 


 

 2〜3日すると、神鉄が鈴蘭台以北が復旧(但し有馬口〜有馬温泉間は3月末まで不通)したので、先に復旧したJR宝塚線と合わせて、大阪への足が確保されました。当時2週間に1日大阪に所用があったので、何とかこれで大阪にいけることになりました。  

 三田行きに乗り、そこから大阪へ行くのはなんか変な感じでした。何しろ大阪〜三田間はほとんど乗ったことが無かったからです。何とか大阪に着いたとき、なんか別世界でした。  

 

 所用は午後だったので、夕方家に帰る時、三田まではそんなに混んでるなとは思わなかったのですが、三田駅はすごいことになっていました。何しろ、大阪〜三田〜谷上〜新神戸のルートが当時阪神間で一番早いルートでした。大体1月下旬時は阪急は西宮北口・JRが甲子園口か芦屋・阪神が甲子園か青木(西宮は高架工事中で折り返し不可)まででしたので、神鉄に乗客が殺到しました。神鉄も必死でしたが、単線ですので、4連・15分おきが限度です。普段なら信じられないぐらいの混雑で、下手すると乗れない状態でした。 神鉄も手をこまねいているわけではなく、志染〜谷上間に直通の電車を走らせたりして(5連だったので鈴蘭台〜谷上ノンストップ)たのですが、焼け石に水でした。

 当時は播但線和田山迂回の快速なども走っており、大阪〜姫路間が4時間という有様でした。

(2007/01/18掲載)


 

 2月の半ばもなると、JRは住吉・阪神は御影まで開通するようになりました。又、西のほうは神戸まで開通(但し、新長田は通過)し、その後、灘まで開通しました。阪急は2月に王子公園〜御影間が開通し、1〜2km歩いたら繋がるようになりました。

 

 そんな中、所用で山陰方面にいく用事が出来、行きは福知山、帰りは伯備線経由で行きました。新幹線は姫路始発だったので、やくも〜ひかり〜JR神戸線快速(新快速は運休中)で戻ったのですが、鷹取を過ぎたあたりで、目を覆いたくなる光景を見かけました。  一面焼け野原です。高校時代、須磨のほうまで通っていたので、惨状に絶句してしまいました。この世とは思えない風景を生まれて初めて見ました。 ちなみにその地区は鷹取及び御菅地区でした(地図)。

 

神戸駅から神鉄長田経由(長田まで開通していた)戻ったのですが、その間の記憶が思い浮かばないほど、ショックでした。

数日して、地下鉄も開通しましたが、新長田・上沢・三宮は被害が酷く通過のこと。『意味無いじゃん』と思いました・・・。

 

(2007/01/19掲載)

 


 

 3月になると、阪神間もどの区間も、1〜3駅間以外は、復旧しました。地下鉄も三宮・新長田が思いの早く復旧したので助かりました。それまで元町〜県庁前間を歩いて乗り換えしていました。

 

 代行バスも走っていたのですが、大体大阪からの帰りは歩いていました。阪急御影〜阪神御影かJR住吉〜灘間がほとんどでした。30分ぐらいで着くので、なんか、近くに感じました。

 

 よく六甲道附近を歩いたのですが、恐ろしい勢いで復旧作業していました。何しろ、橋脚だけ作り直して、橋桁は再利用ですから早いです。  そのうちJRが4月1日には復旧する、と言う話がマスコミから流れてきました。『助かった・・』と思ったのですが、阪急・阪神がまだまだかかると聞いていたので、少し複雑な気分でした。  この復旧の差が、今まで私鉄王国であった関西の神話が崩れる1歩だと言うことを意味していることは、気に留めていませんでした・・・。

 

(2007/01/22掲載)

 


 

 4月にJRが開通した後、6月には阪急、阪神と順次開通し、震災1年後の96年1月17日に天井陥没のため開通していても通過になっていた大開駅が復活し、すべて開通しました。

 

 

 あれから、12年たちました。私も震災の年に就職のため神戸を離れ大阪に住むことになりました。生活も大きく変わりました。神戸を訪れることも少なくなり、生活が車を持つようになったため、通勤以外、電車に乗ることが旅に行くとき意外少なくなってしまいました。特に地元の神鉄や北神急行は乗ることがめったになくなりました。

 

 最近、久しぶりに乗ったのですが、車掌さんがいなくなり、駅員さんがいなくなった駅がほとんどになり、なんか最近対策協議会みたいなものが立ち上がったみたいです。北神急行も債務が返せず、大幅な経営再建がなされました(危うく千葉急行の二の舞になる状態だったと聞きました)。地下鉄海岸線もお客さんが少なく『廃止しろ』と言う声(これは極端ですが・・・)が出る始末・・・。 さらに唯一元気だったJRもあの尼崎の事故・・・。

 

 

 一体、この間地震や事故などでのたくさんの命を含め、多くの大切なものが失われてしまった気がします。このままだと、関西は一地方になってしまいそう(すでに半分そうなりつつある)な感じです。『グローバルスタンダードの時代ではしょうがない』ではなく、本当に人間らしい街にしたいです。それが今生かされている(あえてこう書きます)人間にとって課せられていることではないでしょうか? みんなが元気な街と鉄道・バスにしたい、このことを願ってまとめとします。

 

(2007/01/23掲載)

 


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